ここでは、主にゲームの制作に関するコンセプトを書いてみようと思います。
制作観念とかコンセプトとか何だかたいそうな感じですが、多分そんなに大したことは書けないでしょう。単に、作品を作る時に「どんなことを考えてるのかなぁ」ってことです。
ここでは、主にゲームの制作に関するコンセプトを書いてみようと思います。
制作観念とかコンセプトとか何だかたいそうな感じですが、多分そんなに大したことは書けないでしょう。単に、作品を作る時に「どんなことを考えてるのかなぁ」ってことです。
基本的に“ゲームは一人でやるもの”と思っている。
理由としては、
個人的な“ゲーム”という世界の心象は、
制作者:「ねぇねぇ、こんなのできたんやけど!」
体験者:「えっ、何々? ちょっと触らして〜。」
という関係に成り立っていると言える。だから、ゲームを“遊ぶ”という感覚が余り無く、どちらかと言えば“内容を確かめる”という部分が大きいように感じている。
制作者の空想世界を探検(体験)することが楽しみなので、その世界に存在する現実はプレイヤが唯一であり、それ以外は制作者の意図通りにコントロールされた人工知能や人口無能的なものであるのが理想だ。そのプログラムされた行動が、どこまで人間臭くできているか、または、プログラム的であってもいかにそれをプレイヤに楽しませるか、その出来映え・進化ぶりを体感するのがゲームの醍醐味といえる。と言うか、この部分を蔑ろにしてゲームの進化はありえないと思う。
とは言ってみたものの、極々簡単なCPUの思考ルーチンでさえ大変難しくて、言っている自分もこんなのを組み上げる術があるはずもないのですが・・・。
CPU対戦モードが必要な個人的本音を挙げれば、“ゲームが不得手な自分にもできるゲームが欲かった”, “お金をかけずに自分の脳内ビジョンを形にしたい”, “オンライン以前の旧世代人間である”, “一人遊びが好き”なんかがあるかな。
2P対戦とかオンラインゲームには、要するに興味が沸かない。もちろん、ジャンルによっては、対人対戦が重要な場合があるのは分かる。でもね、自分の中ではどこまで行っても接待用のオマケにしかならないわけで、それはCPU対戦がしっかりできていているからこそ成立するのだと思う。
ゲームは、普段なかなか味わえない何らかの現象を、何らかの媒体の中で再現して、それを体験して楽しむのも。大雑把に言ってゲームは全て「シミュレーション」と捉えられる。
ゲームだからファンタジーがないと面白くないが、シミュレーションと言うからには当然うそ臭いばっかりでは興ざめしてしまう。リアリティの追及はしなければいけないわけだ。
では、リアリティを追及するとはどうすることなのか。
ハードウェアが高度化し、高精細グラフィックや物理演算が一般化しているようだが、どちらを重視するべきかと言えば物理演算の方だと思う。
それは、グラフィックが「世界の表面(見た目)を表示しているだけ」なのに対して、物理演算は「その世界そのものを定義するもの」で、高度なグラフィックは、高精度の物理演算の上に載ってこそ真価が発揮されるとかんがえるからだ。
しかし、ただのヘッポコプログラマーには、残念ながら高度どころか簡単な物理の知識も、綺麗な画像をグリグリ動かす技術も、持ち合わせてない。
では、自分の作品にリアリティを持ち込むには、どうすればいいのだろうか。
「特別な技術も知識も要らなくて、市販ゲームに余りなくて、アイデアだけで勝負できて」と考えた結果“生活感”に行き着いた。そう、日常生活の極当たり前の出来事をゲームに取り込むだけで全然違ってくる。
しかも、「日常何気なくやっている行動」は、ゲームのネタにもなって一石二鳥だ。
グラフィック偏重ゲームが嫌いなのは、「実写のようなリアルなグラフィック」を売りにする作品『新しい何かを見た』作品になかなか出くわさないからだろう。
そもそも、「ピクセル数とか色数とかポリゴン数とかが増えればリアルに近づくんだ」と言う風潮に疑念を抱く。それが真実なら、VHSの3倍モードで録画した映像なんて、到底実写には見えないはずだから。
ゲームの全ては、“嘘”である。作った映像をコントローラで操っているし、そもそも表示装置を通して見ている時点で“真のリアル(現実)”なんてものは存在しない。
例えば、レースゲームが、本当にリアルだったらどうなるか。間違いなく、プロのレーシングドライバーでないとまともに走ることもできなし、チャンピオンになるなんてド素人のプレイヤには叶うはずもない夢だろう。
それを、素人でも何とか気分だけでも味わえるようにするのが、ゲームである。
要するに、ゲームは、嘘の上に成り立っていし(もちろん良い意味で)、ゲームに現実を持ち込まれても困ってしまう。いくら物理演算で緻密に計算できるとはいえ、その上で超現実を再現してくれないと意味がないのだ。
だからこそ、ゲーム制作者とは、プレイヤに対して以下の点を考慮しなければいけない。
でも、まぁこんな小難しく考えても、できやしない。
所詮、ゲーム。現実の世界ではないのだから、“何でもあり”って考え方もできる。ようは、面白ければ良い。(だからと言って、嘘を付くのが好きな人間だとは思わないでね。)
嘘と似ているようで、ちょっと違うのが“誤魔化し”。
これは、特にグラフィック面で重要になってくる要素で、筆者自体に絵心がある訳でもなく、プログラムの長さ的にもテクニック的にも市販されているものはおろか、フリーの作品にも到底及ばない。それどころか、比べることすら恥ずかしいのが現実。
例えば、MSX版「空気職人」で描かれている自転車の絵なんて余りにも貧しすぎる。そもそも、タイヤの空気が抜けたからと言って、あんな風には決してならない。
自分の力不足をあのような表現で誤魔化しているのだが、逆にあのような表現をすることでプレイヤに空気量を視覚で好い加減(悪い意味ではなく、現象を正確に伝えてはいないが、目的遂行のための情報としては正確に表している・・・と思いたい。これはゲームにとって大事)に伝えることが出来ている。
実は、なかなか実現するのが難しいことを、自分の技量の中でいかに表現するかに一番苦心する。
こう言った誤魔化しの部分にこそ、作者の個性が現れる部分であり、こういう場面に多く遭遇できるのが「非力なマシンで作成するショート ショート プログラム」の面白さなんだと思う。
画像と並んで、現実とゲームの世界で決定的に違う部分が、コントローラの存在だ。しかし、コントローラ抜きにゲームはありえない。
(コントローラレスの操作環境も開発されているが、その方向性には疑いを持っている。なぜなら、人間は敵に立ち向かうとき、とりあえず武器になりそうなものを探して手に取るのではないか? “手ぶら=不安”だからだ。ゲームの世界に挑むプレイヤにとって、この武器に相当するものがコントローラではないのか。「えっ丸腰で敵に立ち向かえって? 冗談でしょ!」)
一般的には、ハードよりソフトが大事だといわれるが、自分は、ソフトよりハード、特にコントローラが大事だと考えている。しょうもないコントローラでは何の刺激も受けないし、刺激がない所からは良いアイデアも挑戦心も生まれないからだ。
しかし、ただの日曜プログラマにハードの設計は無縁な話で、手の出しようがない。だから、その次の段階でありソフト側のユーザーインターフェイスである“操作性”が重要になってくる。ただし、プレイヤの感性に反した気持ち悪い操作性では、触る気にもならない。そんなものは、創る価値がない。
とはいっても、操作性を弄るのは想像以上に手間隙と感性を必要とする、しかも、プログラムの複雑さが増してしまう。限られた範囲で満足のいくものを実現するのは至難の業だが、せめて納得のいく操作方法ぐらいは実現したいと願っている。
そもそも、世間と自分の志向が相容れないようで、巷で好評を博すゲームが軒並み肌に合わず(難しすぎる、面倒臭すぎる、現実離れしすぎている)、「こんなの駄目だ、自分にゃできん」という思いで自分のためのゲーム創り始めた。(だから、ここで公開している作品は、他の方にはつまらない可能性が大です。そこは目をつむってください。)
一般向けゲームとは違う方向性だから、全く無の状態から創めるために市販ゲームに触れるのも極力避けていた(ゲーム機もお金も持っていなかったというのもあるが・・・)。
しかし、この状態では、なかなかアイデアが思い浮かばない。
そしてある日、“無の状態からゲームを作って行くと言うことは、今までゲーム業界に係わって来た幾多の先人達が辿って来た道のりを、たった一人でなぞることになるのではないか”と、気が付いた。
シミュレーション、RPG、アクション、アドベンチャーなど、ジャンルとしての余り伸びしろは残っていないだろうし、これから新しいジャンルが発見できるとも思えない。それなら、今更ゲームを再発明する必要はない。既存のシステムで気に入った部分(市販作品のような規模は到底無理なので、あくまでも“一部分”)を流用し(パクリ)ながら、不満点を自分なりに改善し、それらを寄せ集めて組み合わせれば良いのではないか。そこに自分ならではの味付けを1つ2つ加えられれば、それはもう立派なオリジナル作品として成立してしまうではないか。
または、雑誌やWebサイトなどで、フッと気になったゲームの解説や画面写真から、その作品の中身を想像してみるのも面白いし、この際、市販作品にどこまで迫れるか挑戦してみるのも良いだろう。
脳についてはド素人だが、ネタを考えていて分かったことがある。「脳は、決して“無”から“有”を生まない。」ということである。どんな天才でも、おそらく同じだろう。
新しいアイデアは、過去に経験したこと、知りえたことの欠片同士が、思考の中で集められ上手く重なった瞬間閃く。その閃いた答えが、たまたま過去に似ているものがなかっただけのことであって、必ず先祖が存在しているのである。
本人が、いくら「突然思いついた。過去に類を見ない完全なオリジナルだ。」と主張しても、それは、長年の慣れから物の創り方(生まれ方)を忘れてしまっているだけなのだろう。
だから、「オリジナルのアイデア」という部分に、それ程神経質になる必要はない。もっと気楽に考えてかまわないのではないだろうか。
(関連:知財推進計画が目指す「コンテンツ亡国ニッポン」 3ページ)
ただし、この思いついた「誰もやったことのないネタ」ってのは、悪までも自分基準であることを忘れないことが重要だ。
自分が知らないだけで、同じことを考えた人がいる可能性も、既に存在している可能性も、おそらく高い。だから、「誰も思いつかなかっただろ」と威張るのは、恥ずかしいからやめた方が良い。そのセリフは、人から言われてこそ価値を持つのだと思う。
また、いくら「パクれ」といっても、盗作をしてはいけない。
盗作とは、他人の努力にただ乗りすることだ。ネタの素をくれた方々に敬意を払いつつも、自分らしさを前面に出して違うものに進化させていこうとする気持ちが大事だと思う。
ゲームの根本的な目的は、「相手に勝つ」こと以外にない。ゲームから勝ち負けを取ったら、何をやっているのかサッパリ分からなくなってしまう。
だとすると、戦争物をテーマにしたほうが、簡単に作れてしまいそうな気がする。
現に、市販されているゲームでも戦争物が大部分を占めている。例えば、悪者にさらわれたお姫様を勇者が救出に行くとか、モンスターの大群が人間界に侵略して来たりとか、複数の陣営に分かれて生き残り戦を繰り広げたり等が定番だ。
しかし、個人の趣味で創る作品は、市販する為の作品ではない。自分だけの世界を造るのだから、市販品と同じことをしても意味がないし、個性と言う観点からも戦争物はなるべく避けたい。
そもそも、粗暴で野蛮なことは大嫌いだ。“殺す”という行為は、ゲームとして面白くても、どこか後ろめたさが付きまとい心底楽しめない。(あと、RPGで“他人の家の宝箱とか壷やタンスを調べると、アイテムを入手”なんてありがちな場面だけど、あれって完全に泥棒だよね。なぜ、住民は怒りもせず泣き寝入りするのだろうか?)
純粋(単純)な続編は、避ける。
その作品で、もっと出来ることがあるのなら最初からやっておくべきだし、その作品に思い付いたアイデアが採用できなかったのであれば、それはその作品にふさわしくなかっというだけのことだ。そのアイデアが、面白いと思うなら別の作品に活かすべきだと考える。はたまた、1回で収まりきらない規模のネタなんだと言うなら、最初に○部作と決めておくべきである。
とは言っても、これは、“純粋(単純)な”続編の話。
前作がヒットしたから、それに肖ろうと変わり映えのしないナンバリングタイトルをこれでもかと連発する商業タイトルのような手段は、何の面白みもない。どうせやるなら、ガラッと変えないと。
どうしても、続編が欲しいというなら、“それなりの期間をあける(例えばゲーム機1世代に対し1タイトルとか)”,“続編を作るだけの内容面での正当な理由ができた”といった条件をクリアすることが必要だと考える。
システム(アイデア)の流用と言う面では、色々と使い回しても一向に構わない。
素となる部分は、そんなに幾つもあるわけではない。見る方向や切り口が違うだけで、全く違う感覚が味わえるなんて、何だか面白いし得した気分で嬉しくなる。
本当なら、移植もやりたくない。作品の内容が、もっとも似合うハードで創られるべきだし、同じ内容をたくさん創ったって面白くない。新しいものが創りたい。
しかし、現実は、実際に創ってみてから「違うハードの方が似合ってたかも」と感じることもなくはないし、開発期間が限られているときは、完成形がハッキリしているので移植なら楽だ。
こういうときは、移植先に合わせた新しい要素を付け足すなり、技術移転の知的好奇心も満足させながら移植を楽しむというのもありだろう。(意外と、高スペックハードで創ってみてから低スペックハードへ移行した方が、低スペックでいきなり創るより簡単だったりする。)
さらに、環境の問題がある。PCの世界は、どんどん変わって行くので、昔の作品の開発・実行環境もいつまであるか分からない。だからと言って、いちいち最新の環境に作り直していては埒が明かない。
結局、切り捨てるしかないのだろうか。ちょっと、悲しい。
昔の雑誌に掲載されていた作品を見ていると、身近に感じられるせいか「どんな風にできているのかなぁ?」と興味がわいてくるし、次第に「自分でも創れるかも。創って見たい。」と感じてくるかもしれない。
そんな、好奇心をくすぐる養素が必要だと思う。
その養素となるために、作品を最後まで徹底して創り込まないようにしている。完全に完成させてしまうと、その先が無くなってしまうからだ。しかし、“手を抜く”わけではない。
不満を改善することがアイデアの種になる。だから、ゲームの本質に直接関わらない部分、例えばハイスコアの保存機能なんかを搭載しないでおく。「ハイスコアを保存できたらなぁ」と、思ったら改造に挑戦して欲しい。この機能は、そんな大変なプログラムではないし、既にあるプログラムの修正を殆ど必要なく付け加えるだけで実現できる。まさに、改造には持って来いだと思う。(確かに、作るのが面倒だとか、リストを短くするために一番削り易いという理由があるのも確かだが・・・。)
その助けとなるように、プログラム中に注釈を入れるだけでなく、全ての変数に解説を付けたりと、手抜きはしていないつもりである。
そして改造する時に、もしそのリストが、難解で長大なものだったら、気力が失せてしまうだろう。これからプログラムを始めたいという人が見るサンプルとして、ソースは簡単で短いのが望ましい。
こんなヘッポコが造るプログラムが、手本としてどれだけ価値があるのか疑問だけれど、こんなレベルでもゲームが作れるんだとわかって貰えると思う。
それにしても、パーソナルコンピュータには、いつまでも個人的なものを“創像(創造+想像の造語)”する機械で居て欲しい。
音楽にしろ映像にしろ、自作してこそ真の面白さを体験でき、その為の環境を提供することがパソコンの存在意義だと信じているから。逆に言えば、知的クリエイティブ・ツールとして以外のパソコンは必要ない。これは、ホビー分野だけでなく、ビジネス面においても知的好奇心を刺激しない環境では良いアイデアなんて閃くはずがないから。
「短」には、他にも意味がある。
それは、ゲームのプレイ時間を短くすること。“すぐ終わる”のが大切。しかも、誰にでもクリアできることを心がけている。(その点では、明らかに失敗している作品もあるが・・・。)
見た目に地味な作品が多い上、一発ネタ傾向が強いので、長時間のプレイに絶えられない。
その分、「もっと難易度を上げたい」とか「もっと簡単にしたい」とか欲求が生まれ、改造の動機を持ってもらうことに繋がるだろう。
もともと、“MSX・FAN”(徳間書店:1995年8月号で休刊)と言う雑誌に「ファンダム」と言う投稿プログラムのコーナーがあった。その中の、「1画面部門」にいまだに強い憧れを抱いている。「1画面」とは、40文字×24行(画面上の行)=960文字以内でプログラムを成立させる(システムはもちろん、絵を描き音も鳴らすのだ)。恐らくMSX以外のプログラマ、特にWindowsプログラマには考えられない制限の中だからこそ、いくつものアイデアが凝縮されているのだ。(更に、すごい物では、1行プログラムと言うのもあった。1行(BASIC上の行)=256文字(この中には行番号と改行文字も含まれるので実際は最大252文字)でゲームを作る。この制限の中で実現された、横スクロール型ジャンプ・アクションや疑似3Dレースゲームには、度肝を抜かれた。
僕も、いつか創ってみたいと思いながら、いまだにその夢を叶えることができないでいる。だからこそ、小さくて短い作品に拘ってしまうのだろう。
また、規模が小さいだけに、システム面でも必然的に小さくなる。個人的に、操作系が複雑になるほど面白くなくなるので、シンプルな操作で生まれた小さな差が裏で色々なところに影響し合い、結果的に大きな差となるようなゲームシステムが理想的だ。
そして、シンプルなシステムを目指すと、付け加えられる要素も減ることとなり、まわりまわって続編を作らないという部分にも繋がっていく。また、プログラム初心者にお手軽感を持ってもらうことに寄与できる。
おそらくないだろうが、もし、継続性が重要な長編作品を創るなんて場合には、セーブポイントの間隔に気をつける必要が出てくる。というよりも、いつでもどこでもセーブできるように(要するに、中断できるように)しておくべきだ。人によって、ゲームに費やせる時間は違うのだから、当然のことだ。
「プレイヤの都合でやり直せないように、セーブは制限されるべき。」と考える人もいるだろうが、それはセーブしたくなければしなければすむ問題(それができない意志の弱い人間の言い訳)。そんな個人的な理由で他人の遊び方を制限するべきではない。
ゲームのテンポを大事にしたいと考えるかもしれないが、時間内にセーブポイントまで辿り着けず終了を余儀なくされると、その日ゲームに費やした時間がまるっきり無駄になってしまう。これのほうが、よっぽど興醒めではないだろうか。
初めから粗方の総量がわかっていて、時間計算がしやすい映画(DVD)や小説でさえも、その人の意思で何時でも中断できる。この先、どれぐらい時間が必要なのか全く分からないゲームは、もっと融通が利いていいはずだと思う。
ソフトを公開するに当たって、金も時間も労力も無い個人が、全ての責任を負い切れるわかがないし、バグの対処や要望に応えられる保障もない。そんなソフトにお金を払いたいとは誰も思わないだろうし、お金を頂くなんて申し訳ないしおこがましい。
そういう意味で、素人のシェアウェアには懐疑的だし、バグ修正や改造・学習の観点からもソースを含め全て無償で公開する必要があると考えている。
ちなみに市販のパッケージソフトの値段だと、自分の貧乏性な金銭感覚では、携帯型で2千円前後、据え置き型で3千円前後、超大作でどうしてもと言うなら4千円前後だと思う。実際のコストがどのくらいかかるのか知らないけれど、事前に限られた情報だけで判断して、面白そうだから試しに買ってみようと思える限界がこのぐらいの値段だと考えている。これ以上となると、本当に一目惚れした作品しか手が出せなくなってしまう。
だからこそ、無料ゲームの登場は、既存のコンソール気にとって脅威だ。
散々、短く短くと言ってきて何だが、長いものもある。
それは、制作期間(テスト・デバッグ含む)。
筆者の場合、1作品創るのに速くて3ヶ月、長ければ半年〜数年以上かかる。自分でも遅過ぎると思う。
それもそのはず、最初に、詳細な仕様書を作らず、大まかなイメージだけで創り始め、その制作の過程で思い付いたアイデアでどんどん肉付けをしていく。その結果、不具合の解決方法が見付からなかったり、行き詰ると、答えが見付かるまで保留してしまうのだ。
でも、この行き当たりバッタリさが、大事なことだと思っている。そんなに根を詰めても辛いだけで、必ずしも良い結果に結び付くとは限らないし、最初に決めた内容が最も優れているとも限らない。そもそも締め切りがあるわけでもない。考えて考え抜いても、解決できない時は、いっそのことしばらく放って置いて、頭の中が切り替わってから、もう一度見つめ直すと、意外と問題点が見えてきたり、新しいアイデアが閃いたりするものである。ここで、重要なポイントは、その作品について完全に忘れてはいけないこと。いつも、頭の片隅に置いておかなければ、アイデアは閃かない。
このことは、テスト・デバッグにも当てはまる。毎日毎日、同じゲームをやっていても、飽きるだけで新しい発見は期待できない。そこで、数週間〜1ヶ月ほど間を空けて気分をリフレッシュしてから遊びなおすと、今まで気付かなかった違和感,もっと面白くするアイデア,見落としていたバグ,無駄な処理が見えて来たりする。「やっぱり、テスト期間を長くすることは、大事なことなんだ」と、実感する。
昔、投稿系雑誌で、「完成に3日もかかってしまった。」と言う台詞をたまに見かけた。
3日ですよ、3日。滅茶苦茶速いじゃないですか。自分には到底真似できない神業、尊敬します。もし、それでバグが出ないのであれば。
中には、素晴らしいアイデアを持っていながら一度もテストしていないのではないかと疑いたくなるような作品も存在していた。プログラマにとって、バグが残っている作品を世に出すことは、恥ずべき行為だと認識するべきである。
それでも、人間のすることだから、どうしてもバグが残ってしまうのも事実。
オンラインで即座に修正できる時代になり大変便利で安心な時代になったとはいえ、それに甘えて「後で治せるんだから、バグがあっても構わない」と言う認識を持って欲しくないものである。
と言いつつ実は、投稿した後にバグに気づいたり、投稿先から指摘を受けて大急ぎで修正した経緯がある(MSXの「水辺の憩」「だるま屋 空気職人」、Windowsの「立ち上げ饂飩」「HELuPER!」・・・多すぎるな)。関係者の皆様、その節は本当に申し訳ありませんでした。そして、ご指摘ありがとう御座いました。
ここで公開している作品を触ってもらえばわかるように、実験的なもの意外ほとんど音が鳴らない。
ゲームに音なんて必要ないなんて言わないし、BGMや効果音はゲームにとって重要な要素であることはわかっている。
音が無いのには、理由がある。それは、ずばり作者が“音音痴(歌が下手というだけの意味ではなく運動音痴の音楽版)だから”だ。作曲することも、効果音を作成することもできない。
今時、インターネット上にいくらでもフリーの音素材が公開されているのだから、それを拝借すれば解決しそうだが、これも問題がある。
第一に、ちょっと偏った内容のゲームを創ることが多いので、それに合うような偏った音が公開されていることはほとんど期待できない。また、音に関する能力が欠落しているだけに、その音が自分の作品に合うのかどうかを判断できないのだ。
第二に、音を鳴らそうとするとWaveファイルやMP3・MIDIファイルを再生することになるが、これらはそう気軽に変更や改造ができないこと。作品の改造を推奨しているのに、音だけ弄れないと言うのが何となく腑に落ちない。
PCにとって、波形を合成するなり生成するなりして音を鳴らすことなど造作もないことだろうが、それを行う技術も知識も持っているわけ無いし、プログラム初心者には益々難解になってしまい意味が無い。
音が、自分にとって最大の問題点である。これを解決できる日は、いつか来るのだろうか。
要するに、自己満足を追求すること。
商業的な要素を考える必要は全くないので、自分のやりたいこと・頭の中にあるものをそのまま形にすることを第一に考え、自分以外の人のことは二の次に考えるべき。
自分が楽しくなければ、自分で創っている意味も価値も見出せない。
理想の世界をPCの中に再現するために、全身全霊を傾けゲームの制作に励む。考えても考えても、「どうしようもない、もうだめだー!」となったら、理想なんて綺麗サッパリ取り払って、違う方向から見つめ直してみる。理想に拘ったってつまらない物を創ってしまっては意味がない。
なんて、最後に今まで書いた全てを否定して終わることにしよう。
面白ければ、何でもありやもんね。
機種 | タイトル | 一口メモ |
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MSX2 MSX turboR |
メタルギア2 ソリッドスネーク | 匍匐ができてフェンスの穴や換気口をもぐれる、物音で敵をおびき寄せられる とにかく、ありとあらゆるものがアイデア・アイデア・アイデア ゲーム創りはこうでなくてはという見本 |
SDスナッチャー | ファンタジーではなくSF(ワールドマップがなく街と街を車で移動したり魔法ではなく銃で射撃する戦闘シーンなど) レベルと言う概念が希薄 同じ物語(スナッチャーに対して付け足しはあるにせよ)を、全く異なる手法で表現している |
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幻影都市 | この作品も乗り物で移動するし、町並みがファンタジックではない 登場キャラクタが、細かく動き演技をする |
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3DO | オーバードライビン | この世代のハードの中で(いや、その後数世代に亘って)、画像・音・ゲーム性共に最も美しい車ゲーム ゲーム史上初めて風景を眺めていられる作品 |
ポリスノーツ | マウスで行う爆弾解除シーンがたまらない メタルギア同様、アイデアが豊富 |
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鉄人 シリーズ | CGと実車の融合 造形のダサさが強烈に格好良く感じるデザイン ゲームとしてではなく作品として観るもの ただし、3D酔いも強烈 |
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PlayStation | ガボールスクリーン | ゲームとして見たらクソゲー、ミュージックビデオとして見たら煩わしい でも徐々に音楽になっていくのが止められない 音楽と映像の新しい世界を垣間見た気がした |
ワンダースワン | 電車でGO! | あのスペックであれだけ再現した創意工夫に感服 |
名探偵コナン シリーズ | パズルを解くことで謎を推理しているような感覚を味わえる | |
Wii | ファミリースキー シリーズ | 最も心躍る作品に挙げられる ただ滑っているだけで爽快 |
(このハードウェア遍歴だけでも、筆者の偏重ぶりがうかがえる。)